1920年代のアメリカが狂乱すぎる!映画「華麗なるギャツビー」の時代がよくわかる

1920年代のアメリカは狂乱/映画「華麗なるギャツビー」がよくわかる

スコット・フィッツジェラルド著者のアメリカ文学「華麗なるギャツビー

この文学は1920年代のアメリカを象徴する名作です。
2013年にはこれを原作とした映画がつくられました。

アメリカンドリームのはじまり
圧倒的な映像美とジャズの世界観に浸れます

この記事ではアメリカ文学を学んだ私が、1920年代のアメリカとはどういう時代だったのかをまとめてみました!

この時代を知っていると、これから映画「華麗なるギャツビー」見る際に理解が深まります。

はじめに

アメリカンドリームとは

「アメリカン・ドリーム」という言葉知っていますか?

アメリカン・ドリームとは?
全ての国民は出身や階級に関係なく、自らの努力で成功するチャンスがあるという考え

この言葉は「Epic of America (1931)」の著者”James Truslow Adams”により定義されました。

全ての思想はアメリカ独立宣言から来ており、幸福追求権のもと「すべての人間は平等につくられた」と公表されています。

狂乱の20年代

1920年代のアメリカは「Roaring Twenties=狂乱の20年代」と呼ばれ、経済がものすごいスピードで成長しました。

同時に女性へ参政権が与えられたり、黒人音楽のジャズが生まれたり、アメリカ独自の文化も生まれました。

狂乱の20年代は1929年の世界恐慌で終わりを遂げますが、この時代に起きたことはアメリカ文化に大きな影響を与えたのです。

1920年代アメリカについて概要

経済的側面

アメリカの飛躍

1990年代、アメリカは世界で一番力をもつ国であるとみなされました。

メイン都市であるニューヨークやシカゴは特に成長し、アメリカの象徴である超高層ビル「エンパイア・ステート・ビル」は1931年に建設されました。

大量生産&大量消費

第一次世界大戦に加わったことがきっかけでアメリカの産業は成長します。

戦争は、アメリカ社会に直接的なダメージは与えず、物資の需要がます一方でした。そのため製造業では新しい技術が進み、短時間で大量のものを生産するようになりました。

第一次世界大戦後、人々は辛かった戦争を忘れるために、次々とビジネスを始めました。そして多くの企業が雇用を生んで、経済が大きくなっていったのです。

お金を稼ぎ始めた人々は身の回りのものを買い始め、さらなる需要と技術革新により自動車・電話・ラジオ・冷蔵庫・洗濯機が普及しました。

中でも自動車は国民の生活を大きく変えました。
映画では、車を乗り回すシーンがたくさんあります。

格差社会

家電の普及により国民の生活は豊かになりましたが、全ての国民が同じ生活を送っていた訳ではありません。

小さな村や田舎に住む人々は変わらず質素な生活を送っていました。特に黒人や外国人などマイノリティーに属する国民の生活は苦しいものでした。

狂乱の20年代をつくったのは、主に都会の文化だったのです。

文化的側面

若者が求めたもの

自由と独立の気持ちが高まっていたのは、特に若者でした。第一次世界大戦で戦場へ行った若者兵士は、多くの死を目の当たりにしました。

悲惨な戦争現場で命の儚さを知った若者は「限られた一生を楽しく過ごそう!」と伝統に反した新しい生き方を求めたのです。

映画産業の普及

国民の生活は日に日に進化していきました。技術が進むにつれて娯楽業も栄えていきました。中でも映画は新しく、休日には映画館へ行くのが流行りでした

「クララ・ボウ」「ジョーン・クロフォード」「チャールズ・チャップリン」「ルドルフ・バレンティノ」という世界的セレブも現れました。

クララ・ボウ / 画像引用:HISTORY COLLECTIONより

映画業は、独身の男と女が一晩中パーティーする映画を数々つくり、多くの人々に夢を与えました。

新しい文化が次々と生まれる中、シングルマザーや同性愛を扱うものもあり、この頃から人々は性に対する新しい考えを話し合うようになりました。

ジャズ・エイジ

ジャズが流行ったのはこの時代です。

だみ声で有名な「ルイ・アームストロング」知っていますか?(上記画像)彼は当時活躍していた黒人ジャズミュージシャンで、ニューヨークハーレム街にある「コットン・クラブ」という高級ナイトクラブで演奏していました。

ジャズ文化が人気になると、人々はナイトクラブで白人と黒人が一緒に食事をとりダンスするのを見るのでした。

都会は時代が進んでいたため、以前よりマイノリティに対する差別が少なくなってきたのです。

チャールストン・ダンス

「Charleston=チャールストン」とは黒人文化の中で生まれたダンスの一種です。リズムに合わせて両膝をつけたまま足を交互に跳ね上げるのが特徴です

この独特なダンス見たことありませんか?
ジャズ文化は音楽だけでなく、ダンスにも影響していたのです。

社会的側面

社会問題

劇的に変わる社会において多くの問題が出てきました。どれが合法でどれが違法か論争は絶えず、自由な都会と保守的な田舎は対立していました。

1920年代は都会の人口が一気に増えたので、犯罪や政治の崩壊も頻繁に起こっていたのです。

自由な都会では、性やお酒・ドラッグ・同性愛に対して、寛大な考えをもっていました。

禁酒法時代

刺激的なイベントや事件が絶えなかったため、新しい法律が定められました。それは、お酒の販売・製造・輸送を禁止するものです。

この法律は、犯罪を少なくし国民の健康を改善するために、地方のプロテスタントや民主共和党によりつくられました。

宗教で使うワインはOK。私有してお酒を飲む行為も許されていました。

ただ、多くの地域では保有することも罰するほど厳しくなっていたため、組織的な犯罪が増え、警察や公務員の汚職も広まりました。

スピークイージー

画像引用:Legend of Americaより

スピークイージー(Speakeasy)」とは「お酒の密売所」のことです。

禁酒法時代は、隠れてお酒を販売する密売所がたくさんありました。密売所を経営するとお金になるので、次々と同じようなバーが増えていったのです。

お酒を調達し密売所へ売りつける行為もとても儲かったので、ギャングや犯罪者はもちろん、一般人もこのビジネスを始めました。

スピークイージーに入るには、合言葉を使ってスパイではないかどうか見分けていたそうです。

1920年代の女性の変化

女性のありかた

働く女性

1920年代のアメリカは経済だけでなく、女性の立場が大きく変わりました。

第一次世界大戦中、男性の代わりに経済を回していた女性は、戦争が終わって男性が戻ってきた後も働き続けました。

なぜなら、家電の普及で家事の負担が減っていったからです。

女性参政権

画像引用:HISTORYより

ずっと立場が弱かった女性ですが、教育が進む都会では対等な生活を送れるようになってきました。

自立した女性が増えたため、国家は「アメリカ合衆国憲法修正第19条」を発表し、女性も政治に参加できるようになりました。女性の政治立候補は、連邦政府のアジェンダに大きな影響を与えました。

1920年代の女性政治活動は小さな力でしたが、今日の政治において平等な立場を確立してくれたのです。

女性のオリンピック出場

スポーツ界でも大きな変化がありました。

1928年のオリンピックで初めて女性が選手として参加しました。これも女性を男性と平等に位置付ける大事なイベントでした。

女子大ができる

画像引用:BROWN UNIVERSITYより

女子大学ができて、教育を受けられる女性が増えていきました。1928年には女性の進学率が19%から39%に上がりました。

進学した女性は「秘書」「教師」「看護師」といった、女性に向いているとされる職業につきました。

こうして若い独身の女性は、家族のもとを離れるようになっていったのです。

フラッパーとは?

フラッパーの定義

「フラッパー(Flapper)」とは、短いスカートにボブヘアでジャズを聴くような女性のことです。

彼女らは本来女性があるべき姿に反して、自由な姿を見せびらかしました。

子どもっぽさを残しつつ逞しく生きるフラッパーは、アメリカのジャズ文化としてヨーロッパにも広がりました。

売春婦?

「flap」とは若い売春婦のことを意味します。

1980年代には「Flapper」というスラングが生まれ、軽蔑的な意味を含まない一般的で活発な若い女性のことを指しました。

映画業ではこの「何も考えずに楽しむのが好き」なフラッパーを、アメリカとヨーロッパに広めていきました。最初に出た映画はオリーブ・トーマスが演じる「ザ・フラッパー」というサイレント映画でした。

この影響を受けて独身の若い女性は、自由気ままな女の子に憧れていたのです。

自由の勢い

画像引用:HISTORY COLLECTIONより

戦争の恐怖を知り、人生は短いと悟った若者は限られた時間を精一杯楽しもうとしました。

フラッパーの行いは、上品な女性のイメージとはかけ離れ風変わりなものでした。

フラッパーは進化するとともに自立していきました。夜のナイトクラブで踊り倒してはタバコも吸い始め、その影響でタバコ産業はこの10年で2倍になりました。

自転車に乗り、車を運転し、堂々とお酒を飲むフラッパーの行いは、禁酒時代において傲慢で冒険的であったのです。

デートを楽しむ

女性は大人しく危険なことはしないと思われていた時代に、フラッパーは自由なデートを重ねます。

結婚する前の女性はもはや一人の男性と付き合わず、複数の男性と性的な関係を持つようになったのです。

この行動のおかげで女性は心の中で思っていたことを言葉にし、やりたいことをやるようになりました。

ファッションについて

3大ファッション雑誌

好景気によりファッション業界も市場を広げました。

ジャズの流行で若者のおしゃれ欲が増え、1920年代には「Vogue」「The Queen」「Harper’s Bazaar」という一流の雑誌ができました。

従来のコルセットは取り外されました。1921年にはストレートなドレスが紹介され、ガラスビーズとパールでできた長いリボンがとても流行りました。

この時代は、フランスのファッションデザイナー「ココ・シャネル」も大きな影響を与えました

ファッション

画像引用:VINTAGE DANCERより

結果として女性のドレスはルーズなものに変わりました。

腕は出したまま、くびれのないストレートなシルエット。シルクやレーヨンでできたストッキングを着用し、スカートは膝丈になりました。

チャールストンダンスで上下自由に動けるようドレスはカットされ、柔らかく体のラインを出さないコルセットを着用することで、ボーイッシュな印象を与えました。

Vogueが発表したハイヒールも流行りました。

女性はドレスを着ない時はズボンを履き、スポーティーで健康的なイメージを与えました。

画像引用:marie claireより

髪型やメイク

画像引用:IMDbより

フラッパーの間ではボブヘアが流行りました。これは社会への反抗だけでなく、ダンスに最適な髪型だったのです。

フラッパーは公共の場で堂々とメイクをしていたので、どこへ行くにもコスメポーチを持つようになりました。濃い赤で唇を強調し、目の周りは黒く囲み、肌は青白く塗りました。

しかし、後にココ・シャネルが小麦色の肌を見せてからは、健康的な肌が流行りました。

ファッション産業

従来のファッションと違い、フラッパーの服は誰でもフィットするデザインであったため、大量生産にとても有利でした。

こうしてファッション産業が大きくなると共に、女性は自身の理想へ近づいていきました。

ベティー・ブープ

「ベティ・ブープ(Betty Boop)」というキャラクターを知っていますか。ベティ・ブープは1930年の不景気に登場した、フラッパーを象徴するキャラクターです。

見た目はまさにフラッパーそのもの。丸くて大きい頭は赤ちゃんみたいで、細い体と不釣り合いです。成熟しているようで少女らしさが残った印象を与えますね。

ベティ・ブープは「Sex」のシンボルとして、初めて確立されたキャラクターでした。女性キャラクターの中でもベティのセクシーさは独特でした。

シュールで心理的描写を含んだベティは、大人の視聴者にとても人気でした。

狂乱の20年代が終わった後だったからこそ、愛される存在だったのかもしれません。

1920年代の終わり

世界恐慌

好景気は長く続かず、1929年10月29日米株式市場の崩壊による「世界恐慌」で狂乱の20年代は終わりました。

数千人の投資家が巨額のお金を失い、生活の全てを失いました。銀行・企業・工場は閉鎖し、何百人もの国民が職を失いホームレスも増えました。

フラッパーが残したもの

フラッパーはアメリカを象徴する華やかなキャラクターとして、今でも人々の記憶に残っています。

フラッパーになれる女性は一握りでしたが、多くの女性がフラッパーに続き、カジュアルな文化やファッションを楽しみました。

狂乱の20年代が終わると女性は結婚して少ない賃金で働く生活に戻りましたが、自由に対する意思は変わりませんでした。

まとめ

1920年代アメリカは「自由」と「独立」のアイデアを確立しました。経済・文化・社会すべてにおいて、アメリカのアイデンティティが生まれた時代でもあります。

若者は自分の人生を生きるため、古い価値観を変える努力をしました。

この挑戦は「今後必ず起こる変化」に対応していくため、今でも役立っているのです。

以上、1920年代のアメリカについてでした!

時代背景を知っているとより映画「グレート・ギャツビー」の理解が深まります。

アメリカがどういう国なのか、そこから日本はどのような影響を受けているのかも見えてきます。